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	<title>大阪築港教会 &#187; 説教</title>
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	<description>OSAKA SEASIDE KOREAN CHURCH</description>
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		<title>起き上りなさい。床を担いで歩きなさい。ヨハネ５：１～９　２０２２年１０月２３日</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Oct 2022 05:04:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ここには、第三のしるしが行われたことが記されています。そのしるしとは、38年もの間、病気で寝たきりの人をイエスの言葉によって起き上らせ歩かせたという癒しの奇跡です。ベトザタの池にある回廊には多くの病人たちが横たわり、水が<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2490">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>ここには、第三のしるしが行われたことが記されています。そのしるしとは、38年もの間、病気で寝たきりの人をイエスの言葉によって起き上らせ歩かせたという癒しの奇跡です。ベトザタの池にある回廊には多くの病人たちが横たわり、水が動くのを待っていました。なぜなら、「主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(212頁)と言われている通りです。イエスが、彼に「良くなりたいか」と尋ねられた時、彼は、「良くなりたい」と言わず、「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないのです」と答えています。これは、今、彼が何に苦しんでいるかを示しています。それは、孤独です。彼には、自分のことを本当に思い、心配し、支え、助けてくれる人がいない。自分のことを愛してくれる人がいないのです。彼は、そのことに苦しんでいます。ということは、彼に、人と人との絆ができれば、彼の苦しみは解決するのでしょうか。もし、彼にそのような関係が必要であるならば、イエスは、良き隣人としてその人を誰よりも先に水の中に入れたことでしょう。しかし、実際はそうではありません。むしろ、「起き上りなさい。床を担いで歩きなさい」と言われたのです。彼に必要としているのは、御子としての権威、その力ある命令だったのです。それこそが、彼の苦しみに根本的な救いを与えるものです。たとえ彼のことを愛し、心配し、支えてくれる人がいたとしても、その人が彼を起き上がらせることはできません。38年間という期間がそれを示しています。人間には、そのような力はありません。しかし、イエスが、御子としての神の力と権威によって「起き上がりなさい」と命じてくださるなら、彼は起き上がることができます。父なる神から遣わされたイエスの恵みある力のみが、苦しみの中でうずくまっている人を起き上がらせることができるのです。つまり、彼に必要なのはこのイエスとの出会いなのです。第三のしるしは、そのことを示しています。この出会いがあってこそ、人と人との繋がりが可能となっていきます。自分のためだけでなく、他の人々のために生きる者となり、人との間に良い関係を、愛の交わりを築いていくことができるのです。そのような歩みを、日々、この場でイエスの言葉によって新たにされながら始めていく皆さんであって欲しいと願います。</p>
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		<title>２０２２年　８月２１日　神の愛　ヨハネ３：１６～２１</title>
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		<pubDate>Sun, 21 Aug 2022 06:04:44 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[今日のテキストは、「福音書の中の福音」と言われる箇所です。「キリスト教とは何ですか」と問われた時に、この聖句を示せばいいと思います。これは、イエスの言葉であると同時に教会の信仰告白でもあります。ですから、ここにはイエスの<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2443">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>今日のテキストは、「福音書の中の福音」と言われる箇所です。「キリスト教とは何ですか」と問われた時に、この聖句を示せばいいと思います。これは、イエスの言葉であると同時に教会の信仰告白でもあります。ですから、ここにはイエスの福音の根本的な内容が、つまり、キリスト教の中心的な教えが示されていると言えます。</p>
<p>教会が宣べ伝えている福音、つまり、救いの知らせの根本とは、神が世を愛してくださっている、ということです。「世」とは、この世界とそこに住む人間全体のことです。そして、その世は闇が覆っているとヨハネ福音書は見ています。なぜなら、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(1:10)からです。認めなかったとは、言である神を神として受け入れなかった、信じなかった、ということです。この罪が神との本来の関係を破綻させ、人類に呪いをもたらしたのです。その状態を闇と見ているのです。闇の中にい続けると滅びます。なぜなら、最終的に神が裁くからです。</p>
<p>しかし、悲惨な状況の中にある私たち人間を救うために神は御子をこの世へと遣わしてくださいました。呪いの根本である罪を取り除くために、つまり、その罪を赦し、再び、神との本来の関係に戻すためにイエスは受肉して来られたのです。そして、私たちの身代わりとなって、神の裁きを受け死なれました。それだけでなく、死から甦らせました。これらの御業は、神が一方的に私たちを愛してくださったことによって成されたものです。神はそれほどまでに、この世を、常に反抗する私たちを愛してくださっているのです。この愛に気づき、受け入れるなら、つまり、主イエス・キリストを自分の救い主であることを信じるなら、裁きから免れ、救いを得、永遠の命に至る道を歩むことができるのです。</p>
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		<title>２０２１年１０月１７日　神が与えてくださる体　第一コリント１５：３５～４１</title>
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		<pubDate>Sun, 17 Oct 2021 05:11:14 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[15章には、死者の復活のことについて語られています。パウロは、また、聖書は、死者の復活を前提にして語られています。そこには疑いの余地はありません。となると、どのような体で復活するのかが問題になってきます。もし、死者の復活<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2276">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>15章には、死者の復活のことについて語られています。パウロは、また、聖書は、死者の復活を前提にして語られています。そこには疑いの余地はありません。となると、どのような体で復活するのかが問題になってきます。もし、死者の復活が、たとえば、死んだ後、生前の体によみがえってこの世の人生を、生活を再スタートすることになるということでしょうか。そうなると、それは、救いとは言えないし、復活する意味もありません。パウロが語る復活は、今、私たちがこの体で生きているところから復活は何だろうかと推し量ることはすべきではありません。なぜなら、種と実では、その姿が全く異なるように、私たちの推測や想像で、復活の体を推し量ることができないからです。神が宇宙万物を創造された時、誰が、今の体を想像することができたでしょうか。それと同じように、将来、与えられる新しい体を誰も想像することはできません。それくらい素晴らしいものだ、ということです。パウロが語り伝える復活の体は、この世の延長線上にあるものではありません。全く異なります。しかし、忘れてはならないことは、将来の復活の体にも、今の体にも神が与えてくださった輝きがある、ということです。つまり、栄光や生きる意味があるのです。それを、私たちは、キリストが示してくださった愛の中で見出していかなければなりません。そうすることで、私たちは、様々な困難があったとしても、将来与えられる復活の希望に生きることができるのです。</p>
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		<title>２０２１年１０月１０日　死の向こう側を見つめる　第一コリント１５：２９～３４</title>
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		<pubDate>Sun, 10 Oct 2021 05:23:50 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
				<category><![CDATA[説教]]></category>

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		<description><![CDATA[今日の本文は、イエスによって与えられている復活への希望がなければ、私たちの生活や信仰はどうなってしまうのか、ということについて語られています。それを3つのポイントで説明されています。 まず、1つ目は、29節の御言葉です。<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2270">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>今日の本文は、イエスによって与えられている復活への希望がなければ、私たちの生活や信仰はどうなってしまうのか、ということについて語られています。それを3つのポイントで説明されています。</p>
<p>まず、1つ目は、29節の御言葉です。「死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」ということです。つまり、復活と永遠の命に与ることへの希望によって洗礼を受けるべきであって、その希望がなければ、洗礼を受けることは無意味です。</p>
<p>2つ目は、30節の御言葉です。「また、なぜ私たちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、私たちの主キリスト・イエスに結ばれて私が持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、私は日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、私に何の得があったでしょう」ということです。復活の希望を抱くとは、死を越えた先に神の恵みと新しい命があることを確信してそれを見つめることです。つまり、肉の目ではなく、信仰の目、または霊の目で、肉体の死、この世の人生の終わりを冷静に見つめ、その信仰によって為すべきことを行うことができるようになります。</p>
<p>3つ目は、32節後半の御言葉です。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」ということです。このような刹那的な生き方は倫理、道徳が成り立ち難くなります。それぞれが自分の好き勝手なことをしていたのでは、人と人との関係を成り立たせることが、つまり、社会を形成することができません。</p>
<p>私たちが、復活の希望に生きる人とされるのは、洗礼を受けることによってです。洗礼を受けることによって私たちは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、私たちの初穂として復活してくださったイエス・キリストと結び合わされます。その結果、キリストによって与えられる罪の赦しと、復活の希望に生きることができる人とされます。私たちが神の恵みの御心を信じる時に、自分の思いや考えをはるかに超えた復活の希望に生かされていくのです。</p>
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		<title>２０２１年２月２１日　唯一の神、唯一の主　第一コリント８：４～６　</title>
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		<pubDate>Sun, 21 Feb 2021 05:44:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[偶像の神などいないという認識は、生ける真の神との出会いにおいて与えられるものです。ですから、この出会いがなければ、いくら私たちがその内容を説明しても誰も信じることはできないでしょう。かつてコリント教会の人々もギリシャの神<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2136">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>偶像の神などいないという認識は、生ける真の神との出会いにおいて与えられるものです。ですから、この出会いがなければ、いくら私たちがその内容を説明しても誰も信じることはできないでしょう。かつてコリント教会の人々もギリシャの神々の像を拝んでいましたが、しかし、生ける真の神と出会い、その独り子イエス・キリストを信じるようになったことで、それまで自分たちが拝んでいたものが虚しい偶像であったことに気づかされました。ところが、彼らがその真理に触れることによって、「偶像に供えられた肉は汚れたものなのでそれを食べるべきではない」という反応と、「いや偶像は神ではなく、単なる木や石の塊に過ぎないので、その肉を食べても別に問題ではない」という反応が起こりました。どちらが正しい信仰的な知識のあり方なのかという後者の方です。汚れた肉を避けるとは、偶像の神々が、その肉に何らかの影響を及ぼしている。つまり、その肉を食べると自分も汚れるのではないか、という不安や恐れを抱いているということです。しかし、主なる神が唯一の神であり、偶像は神ではない、という信仰的な知識が深められれば、そのような偶像への恐れから解放されます。この世の中には、自分を、自分の人生を支配し、これを束縛しようとする力が働いています。しかし、そこから本当に自由になるためには、唯一の神、唯一の主に出会わなければなりません。唯一の神は、唯一の主であられるイエス・キリストを通して知ることができます。つまり、人は、キリストの十字架によってこそ神に到ることができるのです。神はキリストを通して罪と死の問題を解決してくださいました。私たちは、この世において様々な苦しみや不安を抱き悩んでしまいます。しかし、そういったものは、罪と死の問題よりも大きいでしょうか。苦しいでしょうか。不安でしょうか。そうではないはずです。私たちの最大の苦しみ、不安、恐れは、罪と死の問題です。唯一真の神は、それに勝利された御方です。この問題を解決してくださった御方です。ならば、この世で生きている間、たとい、どんな苦しみや不安や恐れを抱く問題に直面しても、私たちは慄き恐れる必要はありません。なぜなら、罪と死の力に打ち勝たれた唯一の主が共におられるからです。私たちは、その御方によって支配から、束縛から解放され、神のもとで自由に生きることができます。</p>
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		<title>２０２０年９月２７日　書かれているもの以上に出ない　第一コリント４：６～７</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Sep 2020 05:18:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
				<category><![CDATA[説教]]></category>

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		<description><![CDATA[私たちには人を裁く資格はありません。ところが、コリント教会において、それが平然と行われていました。自分を基準にして人を裁くことは、高ぶることであり、それは、人へのというよりも神への高ぶりです。人を裁くことができる唯一の御<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2003">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>私たちには人を裁く資格はありません。ところが、コリント教会において、それが平然と行われていました。自分を基準にして人を裁くことは、高ぶることであり、それは、人へのというよりも神への高ぶりです。人を裁くことができる唯一の御方は、イエス・キリストです。その御方を差し置いて自分が自分自身を、また、他者を裁くことは罪です。聖書の教えに従って私たちは生きなければなりません。しかし、そこに、自分の考えや思いが強くなると聖書の教えを越えてしまいます。また、自分の考えや主張を正当化するために都合のいい聖句を引っ張ってきてもいけません。そのようなやり方は、聖書の教えを誤解する危険性があります。ですから、私たちは、聖書が何を語っているのかをしっかりと汲み取っていかなければなりません。つまり、聖書全体から解釈しなければならないのです。私たちは、すべてのものを神からいただいています。その中で特に大きなものは十字架のキリストによってもたらされた罪の赦しと死からの復活、永遠の命の約束です。それらは、私たちの知識や知恵、および良い行いによって得られるものではありません。にもかかわらず、それらを自分の手で獲得したというならば、その人は、自分を欺き、偽っています。私たちは、自分を誇り、高ぶるのではなく、キリストの十字架の前にへりくだらなければなりません。どちらが良いか悪いか、正しいか間違いか、優っているか劣っているかという問題ではないのです。私たちがキリストの前でへりくだる時、自分を誇ること、他人を見下すことが愚かと思えるようになります。つまり、高ぶりから解放されます。その結果、兄弟姉妹への見方が変わってきます。つまり、キリストによって神の恵みを受けている者として人々を見れるようになります。</p>
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		<title>２０２０年９月２０日　私たちを裁くのは主　第一コリント４：１～５</title>
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		<pubDate>Sun, 20 Sep 2020 05:11:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
				<category><![CDATA[説教]]></category>

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		<description><![CDATA[パウロは、コリント教会の人々から裁かれています。まるで、何か犯罪の検疑をかけられているかのようです。しかし、実際は、そうではありません。彼らは、パウロの教えや主張に疑いを持ち、批判しています。それに対してパウロは、「私に<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/2000">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>パウロは、コリント教会の人々から裁かれています。まるで、何か犯罪の検疑をかけられているかのようです。しかし、実際は、そうではありません。彼らは、パウロの教えや主張に疑いを持ち、批判しています。それに対してパウロは、「私にとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」と言っています。つまり、あなたがたの裁きは、神の裁きではなく、人間の裁きに過ぎないので、私にとって少しも問題ではない、と言っています。なぜ、そのような強気な発言ができるのか、というと、彼は、自分を裁く方を、本当の裁き主を知っているからです。それは、イエス・キリストです。ここでパウロが問題にしているのは、自分自身が裁く者となっていることです。そうなると、お互いに裁き合って、争い合ってしまいます。誰でもキリストに出会ったならば、生き方が変わります。どのように変わるかというと、他人を、自分自身を裁くことを止めます。そして、本当に自分をお裁きになられる主に委ねて、その方のみに仕えようとします。キリストの僕に、その管理者に必要なことは忠実です。パウロは「人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と言います。神の秘められた計画とは、十字架につけられたキリストによってもたらされた救いのことであり、それを宣べ伝えることです。もし私たちが、そのことに忠実であるならば、つまり、キリストに仕え、キリストと共に歩むなら、その者は、主の裁きの日に、「神からおほめにあずかります」。自分の狭い判断基準によって人を、そして、自分自身をも裁かず、そのことは、神にお委ねして、自分に与えられている仕事を、務めを誠実に行っていく皆さんであって欲しいと思います。</p>
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		<title>２０２０年９月１３日　本当に知恵あるものとなるために　第一コリント３：１６～２３</title>
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		<pubDate>Sun, 13 Sep 2020 05:14:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
				<category><![CDATA[説教]]></category>

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		<description><![CDATA[神殿を破壊する者は、滅びるとパウロは警告しています。神殿とは、建物のことではなく、礼拝を献げる者たちの群れのことを指します。その群れを破壊するとはどういうことなのか。当時のコリント教会において深刻な問題がありました。それ<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/1998">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>神殿を破壊する者は、滅びるとパウロは警告しています。神殿とは、建物のことではなく、礼拝を献げる者たちの群れのことを指します。その群れを破壊するとはどういうことなのか。当時のコリント教会において深刻な問題がありました。それは、内輪揉めであり、党派争いです。それが、神殿を破壊する元凶となっていました。そのことを突き詰めていくと、彼らの賢さ、優秀さ、立派さを誇るところに表れています。どういうことか、というと、そうすることで、救いを、その確信を獲得し、それを自分の手中に留めて置きたいという思いが働いていたのではないか、と思われます。それが、原因で、十字架につけられたキリストを見失ってしまったのです。神殿の土台はキリストです。そのキリストを失うことは、神殿を破壊する行為と同じです。神殿の土台を人間に置くのではなく、キリストに置かなければなりません。それも、十字架のキリストにです。つまり、自分がどうしようもない罪人であり、キリストの死によらなければ救われない存在であることに気づくべきです。そのことを受け入れることが、愚かな者になることです。しかし、この世の知恵は、十字架のキリストが知恵あるものに映りません。むしろ、より賢くなって、立派になることこそが知恵あるものとして映ります。そこから、他者との比較、優越感を覚え、お互いに見下したり、裁いたりして争ってしまうのです。私たちは、神の神殿です。それを破壊してはなりません。このような状況から脱するためには、もう一度、救われた時の恵みを思い出し、そこに立ち返るべきです。すなわち、十字架のキリストを仰ぎ見るのです。それが、真の礼拝です。それが、健全な神の神殿を、教会を造り上げていくのです。</p>
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		<title>２０２０年９月６日　何を土台としているか　第一コリント３：１０～１７</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Sep 2020 05:58:48 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[説教]]></category>

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		<description><![CDATA[建物を建てる時に重要なのは、その土台です。土台がなければ、建物は安定せず、やがて崩れてしまいます。パウロは、その土台をイエス・キリストであり、それを私は据えたと述べています。つまり、キリストを宣べ伝えたということです。彼<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/1992">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>建物を建てる時に重要なのは、その土台です。土台がなければ、建物は安定せず、やがて崩れてしまいます。パウロは、その土台をイエス・キリストであり、それを私は据えたと述べています。つまり、キリストを宣べ伝えたということです。彼は、それを自分の知恵や能力によって据えたのではなく、神の恵みによって据えました。教会の土台は、イエス・キリストです。具体的には、十字架につけられたキリストです。その上に、建物を建てるべきなのです。しかし、それ以外のものを土台としてしまうなら「かの日」に耐えることはできません。かの日とは、キリストが再臨される日のことです。そして、その日には、審きの火によって、それが残るものなのか、燃え尽きてしまうのかがはっきりと分かります。もし、残るものであるならば、主は喜ばれ、その報いを受けます。しかし、燃え尽きてしまうならば、損害を被ります。私たちは、既にキリストによって救われていますが、キリストが再臨された時、柔和な顔で迎え入られることが良いのか、それとも怒りの顔で迎えられることが良いのか。どちらでしょうか。私たちは燃え残る「金、銀、宝石」で建物を建てるべきです。したがって、何によって建物を建てているか、その素材を慎重に選ばなければなりません。その選別の規準として十字架につけられたキリストに照り合わせて、よくマッチするかを吟味しなければなりません。しかし、私たちは、燃え残る建物を建てることができるのでしょうか。たとえ、私たちが間違った建てかたをしても、悪い素材を使ったとしても土台がしっかりしているので、つまり、神の恵みの中にあるので、救いに漏れることはありません。どうか、主の土台の上に建物を建てることができる私たちでありますように。</p>
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		<title>２０２０年８月３０日　大人になりなさい　　第一コリント３：５～９</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Aug 2020 11:08:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>parklin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[私たちの信仰は、過去のある時点において神から与えられたものです。過去から現在までの過程の中で私たちの信仰はどのような状態で、ここまで来たのでしょうか。信仰は、別の言い方をすれば、信頼です。信頼が成り立つところには愛が働い<br /><a href="https://chikkou-church.holy.jp/archives/1988">つづきを読む</a> &#187;]]></description>
				<content:encoded><![CDATA[<p>私たちの信仰は、過去のある時点において神から与えられたものです。過去から現在までの過程の中で私たちの信仰はどのような状態で、ここまで来たのでしょうか。信仰は、別の言い方をすれば、信頼です。信頼が成り立つところには愛が働いています。この関係が成立するためには、まず、神の側から無条件の愛が注がれなければなりません。その行為がキリストの十字架です。そして、その愛が聖霊によって、自分に注がれた愛であることを知らされてこそ、信頼関係が生まれてきます。そして、そういう信頼関係の中で信仰は深められ、成長していくのです。このことを蔑ろにして、自分よりも優れた人に頼って、その人を通して救いを得るとか、立派な人間になる努力をしても意味がありません。なぜ、コリント教会において、あれだけ立派になろうと努力していた彼らの間で争いや妬みが絶えなかったのか。それは、一番肝心な神の愛を見失ってしまったからです。乳飲み子が親の愛を見失い続けると様々な面で問題が生じてくるように、神の愛を見失ったコリント教会も例外ではありませんでした。パウロは、コリント教会の現状を聞いて、このままでは駄目だと思って、彼らの問題点を遠慮なしに指摘し、それを改善するように促し、早く大人になるようにと助言してきました。彼らの信仰が成熟するためには、この世の何かに、あるいは、人間の知恵に頼るのではなく、御言葉を通して働かれる神と結ばれることによって可能となります。人間から出た哲学や善行によっては、信仰は成熟しないし、それによって、救われることもありません。初めに受けた神の愛(十字架の愛)のもとで膝をかがめ、そして、熱心に神の働きを祈り求めることが大切です。そうすれば、真の信仰共同体として歩むことができます。</p>
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