
2020年 5月10日 誓約する民の信仰 申命記26:1~19
今日の本文は、申命記的律法がまとめられていると言えるでしょう。この律法の前半(12:1~16:17)は、礼拝について、後半(19:1~25:19)は、人間関係について語られており、それは、26章1~11節と12~15節と相対しています。まず、1~11節の礼拝については、収穫物の初物を神に捧げることが言われています。この初物は、神の恵みによって与えられたものであることを意味し、それを感謝するために捧げられるべきことが言われています。また、12~15節の人間関係については、三年目ごとの収穫物の十分の一は、祭司の働きを担うレビ人や、外国人、および、社会的な弱者のために用いられることが言われています。ここには、神を愛することと、隣人を愛することが要求されています。申命記的律法が見つめているのは、この二つの教えです。そのためには、誓約をしなければなりません。誓約とは、約束のことです。まず神がイスラエルの民を愛された。それは具体的に、アブラハムの選びから始まり、その子孫がエジプトで奴隷として虐げられ、彼らの呻きと苦しみを見た神がモーセを通して救い出された。そして、荒れ野での旅路を導き、乳と蜜の流れる地を与えられた。その恵みに感謝して礼拝するのです。これらの出来事は、神が彼らを御自分の宝の民、聖なる民とすることを守られた。自らの義務と責任として守られたこと意味します。これが、神の側の誓約です。これに対して、イスラエルの民の間でも神の愛と恵みに応答することが求められます。それは、強制というのではなく、自発的に神を愛することです。その具体的なことが「主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います」(17)というイスラエルの側の誓約です。この関係には、不自由さや窮屈さはなく、むしろ、喜びと感謝の関係です。そのような関係のために、掟や戒めがあり、そして、16章以下にある裁判人、王、祭司、預言者という働きを担う者を立てることが言われています。こうしてイスラエルの民は神の民として歩むのです。
キリストはそのような関係を新しく築くために来られ、私たちを罪の奴隷から解放し(赦し)、永遠の命(救い)を与えるために、十字架の上で死に、復活されました。これが、神の側の誓約です。キリストの愛によって救われた私たちもその愛に応えるべく誓約を立て、キリストに従っていくのです。それが、新しい神の民である教会と言えるでしょう。神と人を愛する人に神の祝福がありますように。
