在日大韓基督教会 大阪築港教会

OSAKA SEASIDE KOREAN CHURCH
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2021年10月10日 死の向こう側を見つめる 第一コリント15:29~34

今日の本文は、イエスによって与えられている復活への希望がなければ、私たちの生活や信仰はどうなってしまうのか、ということについて語られています。それを3つのポイントで説明されています。

まず、1つ目は、29節の御言葉です。「死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか」ということです。つまり、復活と永遠の命に与ることへの希望によって洗礼を受けるべきであって、その希望がなければ、洗礼を受けることは無意味です。

2つ目は、30節の御言葉です。「また、なぜ私たちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、私たちの主キリスト・イエスに結ばれて私が持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、私は日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、私に何の得があったでしょう」ということです。復活の希望を抱くとは、死を越えた先に神の恵みと新しい命があることを確信してそれを見つめることです。つまり、肉の目ではなく、信仰の目、または霊の目で、肉体の死、この世の人生の終わりを冷静に見つめ、その信仰によって為すべきことを行うことができるようになります。

3つ目は、32節後半の御言葉です。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」ということです。このような刹那的な生き方は倫理、道徳が成り立ち難くなります。それぞれが自分の好き勝手なことをしていたのでは、人と人との関係を成り立たせることが、つまり、社会を形成することができません。

私たちが、復活の希望に生きる人とされるのは、洗礼を受けることによってです。洗礼を受けることによって私たちは、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、私たちの初穂として復活してくださったイエス・キリストと結び合わされます。その結果、キリストによって与えられる罪の赦しと、復活の希望に生きることができる人とされます。私たちが神の恵みの御心を信じる時に、自分の思いや考えをはるかに超えた復活の希望に生かされていくのです。